こんにちは、おたからや黒崎店です。いつもご覧いただきありがとうございます。
今回は、純金小判をお買取りさせていただきました!
みなさんは大判、小判と聞くと大河ドラマや時代劇に出てくる高価なものと思い浮かべるのではないでしょうか?
大判と小判は見た目や名前は似ているものの、まったく別の役割・用途を持っています。
さらに、国内の骨董マニアはもちろん、海外のアンティークコイン愛好家たちからも注目を浴びていて、
買取金額が数百万から数千万円という価格がつくものも存在します。
日本貨幣の歴史を語る上で、「いつ頃から貨幣文化がもたらされたのか」という点です。最も古い貨幣として知られているのは、近江朝時代(667年-672年)に発行された「無文銀銭(むもんぎんせん)」といわれています。
ですが、この貨幣は政府が作成した公的な通貨ではなく、私的に作成させたものだといわれています。
日本ではじめて流通・鋳造(型に流し込んで作成)されたのは、奈良県橿原市の「藤原宮跡」や、
奈良県高市郡明日香村にある「飛鳥池工房遺跡」で発見された「富本銭(ふほんせん)」です。
この貨幣は「富」と「本」の2文字が銭の表面に刻まれています。
富本銭については複数の説が存在しており、流通貨幣説と呪いやまじない銭などの宗教的な目的として造られた厭勝銭説があるようです。
和同開珎が登場してから平安時代までは数多くの貨幣が発行されてきましたが、貨幣の文化は定着しませんでした。
当時では、度重なる新貨幣の発行に伴う価値と信用の低下から、流通の減少も相まって民衆の銭離れが起こってしまいました。そのため、物品としての価値が高い米、絹、布が使われ続けます。
958年発行の「乾元大宝(けんげんたいほう)」を最後に貨幣の歴史が一度途絶えてしまうことになります。
安土桃山時代に豊臣秀吉が天正長大判を作成させていたことからも、各大名たちが軍資金を得るために領地内の開発に乗り出しています。
最初はとても高価で大名や公家の間だけで使われていたとされていましたが、江戸時代に入り徳川家康による金山や銀山の管理と、貨幣製造体制の整備・管理がされたことで、庶民の間で流通するようになりました。
小判は徳川家康が始めた日本の通貨で、一般的に流通させること目的としたお金です。そのため、多くの枚数を流通させるために量産の工夫が数多く施されています。
大判には正式なものであることを示すために、後藤家の「墨書き」が表面に描かれていました。しかしながら、すべて手書きで書かれていたということもあり、墨書きは大量量産に向きませんでした。そのため、小判では手書きではなく「極印」と呼ばれる箔押しのような手法が用いられています。
この技術のおかげで多くの小判を作成することが可能となっています。重さも大判よりも小さくなっていますので、多くを持ち運ぶことが容易となりました。ですが、重さに比例して金の含有量は低くなっており、小判は大判と比べて買取価格は低くなってしまいますが、古銭の中では比較的高く買い取られています。
古銭の中では価値がかなり高く、プレミア価値のある小判は200万円近い金額で取引されています。流通量が多く価値がそこまで高くない小判でも、
コンディションが良ければ50万円ほどで買取されています。
小判一枚で大金になりますからもしご自宅から出てきたらテンション上がっちゃいますよね。
おたからや黒崎店では金価格で他店様に負けない自信がありますのでぜひ一度おたからや黒崎店にお持ちください!皆様のご来店心よりお待ちしております。